湯島の話

有明海の真ん中、天草と島原半島を結ぶ中間に湯島という島がある。私は1959年頃、父に連れられて一度この島を訪れたことがあり、親戚の高橋義隆さんという方のお宅に泊めていただいたことがある。都城から夜行で熊本に着き、熊本駅で夜を明かし、朝一番で三角港に行き、船で湯島に渡った。島には小さな桟橋があり、狭い道が島の周りを走り、百日紅のような木があり、ちょっとした丘を登ると広い野原のような丘がありお墓があったように思う。後に母から聞いた話では、我家の姓を料理谷から土居に移した(私が6歳の頃、移した)後、先祖の遺骨の分骨を依頼しに行ったのだと言う。でも、骨は残っていず、仕方なくそこの土だけを持ち帰って都城市に新しく作った土居の墓に納めたと言う。この土居さんは熊本市から湯島に移転したと聞く。そして、湯島の土居の墓はもう処分されたと言う。湯島と熊本市の戸籍が実家にあるというから、近々調べてみたい。

2009年3月、私は従来から興味を持って調べていたキリシタンの歴史を調べる為に島原半島を訪れた。事前調査で湯島が島原の乱の準備のために天草と島原のキリシタンたちの談合の場所として使われていたことを知り、驚いた。ひょっとしたら私の先祖にもキリシタンがいたのではないかと。でも、湯島小学校のサイトに、「当時のキリシタンたちはすべて島原の乱に参加して、原城で全滅し、湯島はその後数年間無人島になった」と記されていた。高橋さん始め、今の住人の先祖の方々は、その後移住された方々に違いない。そうとすれば、私の先祖にキリシタンがいたかもしれないと言う期待はかなり可能性が薄くなってしまった。でも、調べれば調べるほど湯島に対する関心は強くなる。是非、もう一度、訪ねてみたい島だ。
湯島案内のサイトにキリシタン墓碑が湯島にも存在するとあった。これも是非訪れてみたい。時代は不詳のようだが、島原の乱以前のものである可能性は高い。

島原半島から見た湯島は本当に手の届くような近くに見えた。今回
島原のキリシタン墓碑を調べて回ったが、他の地方の墓碑に比べて、装飾も美しく、大きな墓碑がとてもよく保存されていた。なぜ、そうなのかは今調査中である。

現在の湯島については、ペンネーム湯島太郎さんのブログ(http://ksrk235.otemo-yan.net/e230572.html
)から随分多くの情報をいただいた。感謝したい。

昨日、日本放送出版協会の出した「歴史への招待3(1980)」の岡田章雄氏の「キリシタン大名の信仰心」という記事を読んでいたら、次のような記述があった。

「九州の西海地方では大村純忠が[キリシタン大名への]道を開いたが、彼の模範に従った有馬義貞の家は全部教会に入った。有馬家の一人である志岐諸経は、有馬と天草を結びつける者となり、天草島々の五人衆は、みんなキリスト信者となった。このように針尾瀬戸から不知火海まで、キリシタンの領地はずっとつながっていた。」

今も湯島にクリスチャンの人たちって居るのかな?
(この記事は、2011年1月29日実家からの情報を元に訂正しました。)