日本のカミと聖書の神(God)

前置き:
私の実家は天理教の教会です。
もし、私がクリスチャンにならなかったら、
今頃は天理教の布教師としてNZまで遠征して
きていたかも知れません。

私とキリスト教の出会いは高校の時と大学のとき
それぞれにクラスの友だちが聖書研究会に誘ってきてくれたことが
きっかけで始まりました。

初めて聖書に接したとき先ず感じたのは、
聖書には天理教の教と似ている部分・共感できる部分が
たくさんあるという点でした。


「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、
悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。
なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」
(ルカによる福音書6:45)


という考えや、

「また、みことばを実行する人になりなさい。
自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」
(ヤコブ1:22)


という考えは天理教の教えの中にも見られました。
それでも、私がクリスチャンになるまでには
4年半もの迷いが必要でした。

「天理教のカミが本物かキリスト教の神が本物か?」

という問いかけがずっと心に引っかかっていたからです。
それ以来、私はずっと日本のカミとは
何かを知りたいと願ってきました。


日本人は何をカミとしていたか
大野晋さんの「日本人の神」(2001年)によると、万葉集という1200年位前に書かれた歌集の中では、雷や虎や妖怪や山がカミと呼ばれています。日本にはカミはたくさんいました。具体的な姿や形を持たず、ただよい、さまよい、たまに、人が招くとそこにやってきて、人間にとりついて思いを伝えたりしました(カミガカリと呼ばれます)。また、カミの性質のひとつとして、ある場所や物や事柄を支配するというのがあります。山には山の、坂には坂の、川には川のカミがいました。人がそこを通過するときには捧げ物をする必要がありました。土地にはその土地を支配するカミがいるので建物を建てるときには地鎮祭という祭りをやってその土地を使うゆるしを得なければならないと考えられてきました。人にとってカミは超人的な力を持つおそろしい存在でした。カミの言うことを聞かないとタタリが生じて、死んだり、不幸になりました。だから、人は祭りをして、供え物をして、このカミをなだめなければなりませんでした。

こう考えてくると、日本の文化の中で育った人はきっとあっ、なんか心当たりがあると思えてくると思います。これは私たち日本人の心の奥深くに根を張っていて、何かの拍子にすっと頭を持ち上げてくる考えです。以前、私は東北の仙台という町に住んでいました。目の前には広瀬川という鮎つりもできるきれいな川が流れていました。ところが、ある日、家の前のもみの木の下に小さなお地蔵さんが置いてあるのを見つけてしまいました。私は、クリスチャンである自分の家の庭に偶像があるなんてけしからんと思いました。これは処分せねばならないと勇みたって、そのお地蔵さんを、「キリストの名によって命じる俺の家の庭から出て行けええ」と言いながら目の前の川の中にジャボーンと掘り込んだんです。そうしたら、どうなったと思います?・・・突然、背中にゾゾーっと悪寒が走ったんです。やばい、たたられるかもと思いました。クリスチャンを10年もやってきた自分が、偶像なんて人が作った石けらで何もできやしないと信じているこの自分がびびってるんです。ショックでしたね。こんなにも深く私の心にカミへの恐怖が宿っているなんて。

カミとGodの違い
次に、日本人が信じてきたカミと聖書の紹介しているGod (神と書くと発音が同じで混乱するのでここではGodと呼びます)はどう違うか?違いを見てみましょう。ここでは、先ほどの大野晋さんの書いている神の性質とヘンリー・シーセンの「組織神学」(1961年)という本にあった神の本性や属性とを比較してまとめています。

カミは一つではない。でもGodは唯一です。
カミは漂い、さまよいます。でもGodは同時にあらゆる所に存在できます(偏在性)、だから、漂ったり、さまよったりする必要がありません。
カミは場所や物事を支配します。でも、一定の制限された範囲に限られています。Godは宇宙全体を治めておられます。
カミはその超自然的力で人の心を恐怖で満たします。でも、Godは、彼の聖なる性質や正義の性質でもって罪を裁きますが、愛に満ちた存在です。
カミは人格化され、人間化されます、その結果、人間とカミの間に連続性が生まれ、人がカミになることも可能であると考えられます。しかし、創造者であるGodと被造物である人間の間には大きな隔たりがあります。人はGodにはなれません。
人は食べ物や飲み物(酒)をささげてカミを祭ります。しかし、Godに対しては心を向け、罪を悔い改め、信仰を持って礼拝します。

このように日本のカミと聖書で紹介しているGodとはいろんな点で違いがあるんです。

カミとGodの共通点
じゃあ、反対にカミとGodの共通点はどこにあるのでしょう。鹿嶋春平太という人が書いた「神とゴッドはどう違うか」(1997年)には、カミとGodの関連図式というのが出ています。
ご覧になってわかりますように、カミとGodには明らかに違いがあります。ただ、カミを信じている人も、聖書が紹介しているGodを信じている人も、それが「見えない力で人に働きかける見えない存在、拝されるべき存在」であるという点は共に信じています。

使途の働き17:22−25はこのことに関して面白いできごとを紹介しています。
使徒パウロはアテネという偶像に満ちた町に行ったとき、この共有する信仰心を土台にしてこの町の人々に語りかけることにしました。彼は、「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。」とアテネの人々に語り掛けました。彼はお世辞を言ってたのではありません。本当に彼らはあつい宗教心を持っていた人たちだったのです。ここにパウロは共通点を見つけました。そして、「知られない神に」と刻まれた祭壇をきっかけにしながら、アテネの人たちが知らなかった創造主なるGodを紹介していきました。このパウロの接し方はキリストをまだ知らない日本人の宗教心にどう接していくか考えるヒント与えてくれます。

共通点からの出発
プロテスタントの宣教師が日本に福音を伝え始めてから長い間、私たちはGodの性質とカミの性質との違いのほうにばかり目を向けて、私はキリスト者、あなた方は異教徒として、退け、対立してきました。歴史的に見ると、そうしなければ日本の宗教の中に埋没してしまう危険性が絶えずあったのも事実でしょう。でも、その結果、キリストを信じて彼らから別れた自分にも、切りはなされた家族や周囲の人たちの心にも、深い傷が残ったのも事実だと思います。

ところが、今、キリスト教会の中に新しい動きが育ってきています。それは、共通点から出発しようという見方です。この共通点から出発して、カミを「見えない力で人に働きかける見えない存在、拝されるべき存在」として信じるだけの今までの日本人の信仰心の中にはなかった、救い主の身代わりの死によって、罪がゆるされ、創造主の子供としてGodのもとにいくという恵みへと進むことで、今まで持ってきた日本人としての信仰心の足りなかったところを補い、これを完成させていこうとするアプローチです。一人一人のクリスチャンが聖書をよく読み、そのメッセージを正しく理解して、日本人の宗教心にある共通点に働きかけて、共にキリストによる救いの完成に向けて歩んでいくとき、人口の1%を超えられなかった日本人のクリスチャンの数の増加も見られるのではないかと思います。