日本の聖書(ギュツラフ訳)


始めに
この章では、聖書がどのような経過を経て日本語に翻訳され、その聖書を私たちはどのようにして受けとり、どのように取り扱ったらいいのか考えてみたいと思います。具体的には、江戸末期から明治初期にかけてのプロテスタント聖書翻訳者の概要紹介、特にその中で、現存する最も古い日本語聖書の翻訳をしたギュツラフと彼を助けた音吉、久吉、岩吉のエピソード、また、医療や教育を含めて日本の文化の向上のために貢献し、ついに旧新約聖書全編の日本語訳編纂にまで導いたヘボン博士と奧野正綱の紹介、そして、多くの犠牲を払って日本に伝えられた聖書と言う宝物を私たちがどう受けとって、どう次世代の人に渡していくかという問題を考えたいと思います。添付した図等は、2010年8月29日にオークランド日本人教会で提示した内容に一部手を加えたものです。

1.ギュツラフと音吉
ギュツラフ(写真左上)は中国に伝道したオランダ人宣教師ですが、マカオで中国語と日本語を習い、イギリス商務省の通約官をしているときに、岩吉、久吉、音吉(写真左下)という3人の日本人漂流民の世話をしました。この3人は愛知県知多半島の小野浦の出身ですが、1832年に三重県の志摩から宝順丸と言う14人乗りの和船で江戸に向けて荷物を運ぶ途中で嵐に遭遇し、14ヶ月の漂流を経て、11人が死亡し、アメリカ西海岸のフラッタリー岬付近に漂着し、土着民の奴隷となりました。彼らうち6人の出身地小野浦では、この漂流者たちが死亡したものと思い地元の良参寺に墓を作り弔いました。この墓は2009年3月現在でも存在しました(写真参照。)音吉たちは土着民のもとで3、4ヶ月過ごした後、イギリスのハドソン湾会社に救助され、ハワイ、南アメリカ南端のマゼラン海峡、大西洋、ロンドン、南アフリカの希望峰、インド洋を経てマカオに到着しました。添付の和船の写真は和歌浦の旧校舎を利用した資料館で見た当時の海運用和船の模型です。ギュツラフは彼らの助けを借りて現存する最初の日本語訳のヨハネ福音書とヨハネの手紙1〜3を出版しました。写真のタイトルにはヨハンネスノタヨリヨロコビと読み仮名がふってあります。音吉らの出身地知多半島の方言が入った訳だと言われ、それを朗読したCDもいのちのことば社から出版されていますが、礼拝に主席されていた地元出身の方がこのCDの始めの部分を聞かれた感想では、「カンベンシラナンダ」という言葉以外にはそれほどきわだった特徴はなかったようだとのことでした。

ギュツラフは、彼ら3人に加えて、フィリピンのルソン島まで熊本の船で漂流し、マカオに連れてこられた4人の漂流民、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松をアメリカの商船モリソン号で日本へ送還しようと試みました。その時、ギュツラフが音吉たちにインタビューした記録の中に「岩吉久吉乙吉、徒ノ人ノ御船ニをどろくな、日本ゑハいける」という言葉があります。彼らはこの言葉で日本へのメーッセージを発したのだと思われます。三人の名前、外国の船に乗って帰るけどびっくりしないでほしいとのメッセージ、帰国への期待が凝縮された言葉だと思われます。ところが当時の日本は鎖国のまっただ中。浦賀沖と鹿児島で2回の砲撃を受けて追い返され、彼らは帰国を断念せざるを得ませんでした。マカオへ引き返した音吉は、その後アメリカに行き船員になり、上海に戻り、事業を始め、日本人漂流民の世話をした。最後は奥さんの故郷のシンガポールに行き、そこで亡くなった。遺灰はシンガポールのチョアチユーカンの国立墓地から、イオチユーカンの日本人墓地公園に移され、2005年2月にその一部が上述の小野浦の良参寺の墓に納められました。

音吉たちの手伝ったヨハネ福音書の翻訳の中で、神の訳語として「ごくらく」が出てきますが、何故その語が採用されたかは私の知る限りでは誰も説明したことがありません。これは私見ですが、彼の出身地の知多で浄土真宗が盛んだったことと合わせて、聖書の創造主が音吉らの意識の中で阿弥陀如来と一番似かよっていると考えられて、阿弥陀の居場所、ごくらくを阿弥陀に置き換えて訳語にあてたのではないかと私は思います。